松阪市長
竹上 真人 氏 インタビュー
松阪市と言えば、すぐに思い浮かべるのが松阪肉と本居宣長です。食はともかく歴史的な街でもありますね。
松阪市長竹上 真人 氏
1588(天正16)年、蒲生氏郷が松坂城を築いたのが始まりとされ、近江の日野商人等を誘致して城下町を形成します。氏郷さんは小田原征伐の功労で、2年後には会津若松の42万石、後に92万石の大名となります。その後、服部氏、古田氏と城主が変わりました。古田氏は1619年、今の島根県浜田市に移り浜田藩を興します。松阪市は浜田市と観光交流協定を結んでいますが、このときのご縁がきっかけです。松阪駅の駅前に「驛鈴」(*注1)を模したモニュメントがあります。この驛鈴は、浜田藩の12代藩主・松平康定が本居宣長に源氏物語の講義を聞きに来たとき、宣長の鈴好きを知って贈ったものなんですよ。
古田氏ら武士階級が松坂を治めたのは30年程で、古田氏の移封後、松坂は紀州藩の飛び領地になります。このため、武家社会の色合いは弱く、代わって商人が主導権を握るようになり、松阪商人とか伊勢商人ともいわれますが江戸でも大活躍します。松坂は商人が力を持っていた街と言ってよいと思います。だから自由な気風があり本居宣長や北海道の名付け親・松浦武四郎(*注2)などのような人物が生まれた。慶長年間、三井高俊が質屋兼酒屋を開き、その子高利が京と江戸に呉服店を開業します。三越、三井銀行、三井財閥・・と、近現代に連なる三井グループの起こりです。私は、ほかの地域とは違って武士の人口割合が少なかったから商人が育ったのではないかと思っています。(※1889(明治22)年の町制施行以前は「松坂」、以降は「松阪」と表記しています。)
また、松阪は食の街でもあります。ある大手出版社が調査した「全国の食のおいしい街ランキング」というのがあり、松阪は5位です。松阪牛があり、近くに豊饒な伊勢湾の海産物が水揚げされる。市内で食事してもお手頃価格で美味しい食事が堪能できる。
それに総合運動公園の中に「スケートパーク」を整備しました。どうせ造るなら国際大会ができる規模にということで進めてきました。スケートボードの初心者から上級者、プロスケーターまで楽しめる3種類のエリアを整備。特に滑走面の仕上がりや各セクションの形状は、その都度スケーターに滑走してもらい、スケーターのイメージ通りのコースが完成しました。今まで公園で遊んでいたスケーターにも声をかけ設計にも知恵を貸してもらったようです。彼らは市からそんなことを言われるとは全く思っていなかったようです(笑)。
もう一つ、スポーツ関係では来年フルマラソンを開催することになっています。三重県で開催するのは16年ぶり。定着させたいですね。私は「スポーツと連動したまちづくり」というコンセプトを考えています。フルマラソンを行えばボランティアだけでも3000人近い協力者が必要です。集まったボランティアはたった1日のために頑張ってくれるが、そうした全員の達成感がまちづくりにつながると思うのです。雇用や子育てなどはもちろん大切ですが、まちづくりについてはスポーツと連動していきたい。もちろん、総合運動公園のスケートパークも活かしていきたい。私はこうした取り組みが「地域への連帯感」につながり、人口流出を食い止めるひとつの策になると信じています。
これからの松阪市の課題については、いかがですか。
松阪市を含む南三重地域に16の市町があります。実は、2019(平成31)年2月、南三重の若者の就労対策協議会を立ち上げました。私が「若者の就業対策など、各市町がそれぞれでやるのは難しい。お互い協力していこう」と15市町の首長に説いて回りました。一番よいのは自分の町に住んで働くことです。次によいのは自分の町に住んで近隣の町へ働きに行くことですが、近隣の町に住んで働くこともできます。例えば土日が休みだとすると、金曜の夕方早めに地元に戻り、土日は地元で過ごし、月曜の朝少し早く出勤することで、地域のコミュニティを継続することができます。県外に就職していては、地域との関わりが薄れてしまいます。なんとかこの現状を打開したいのです。
また、松阪から南には高校が22校あります。教育長らと高校を回り、「大手企業に何人入れるかも大切なことかもしれないが、これからは地元に何人残すかを念頭に考えていただけないか。そうしないと地域から若者が減っていく」と説明し、理解していただくようになりました。南三重地域の高校生の4分の3は進学し、そのうちのまた4分の3が県外へ出るというのが現状です。つまり、半数近くの若者が県外へ行き戻ってこない。企業にはインターンシップ制度などをもっと充実させ、多くの学生やUターン就職者を受け入れていただく、そのために必要な支援を南三重16市町で一体的に連携して進めています。
少子化は脅威です。だから子育てのしやすい町づくりをあちこちの自治体でも掲げていて、松阪市も「一時預かり保育制度」というのを設け、子育て中のお母さんがたまにはゆっくり買い物をしたい、美容院に行きたいという時の助け舟にしている。市内にすでに2箇所設置しました。
産業関係はいかがですか?
製造業の企業に働きかけ昨年10年ぶりに誘致が実現しました。企業誘致は続けていて4年間で2社、すでに誘致している企業が工場を広げるなどで10件あります。誘致のときは本社移転もお願いしている。本社は管理部門、企画部門が必ず一緒です。就職の取り組みがしやすい。最近は転職が珍しくなくなったから松阪に帰ってきた時、地元の本社企業に就職できるようになればいいな、と。松阪に本社移転すれば県が補助する制度もあります。
国や県に要望することは?
やはり、地域に若者が定住する方策を出してほしい。一時的な補助金制度ではなく恒久的なシステムの構築を期待したい。
ご趣味は何でしょうか。
「祭り」です(笑)。毎年祇園まつりで青年部の人たちと一緒に三社みこしを担ぐのが楽しみです。翌日は体が痛くて大変。松阪は歴史があるから祭りが多いのです。3月に初午まつり、4月に宣長まつり、7月が祇園まつりで11月に氏郷まつりが開かれる。氏郷まつりでは最近参加者が当時の武士の恰好で参加してくれる。300人くらい参加しますよ。
ほかに趣味と言えば読書。今読んでいるのは「良き社会のための経済学」。フランスの原理主義者みたいですが面白い。出身は名古屋工業大学の土木で、県庁の土木技師として就職した。40歳の時に県会議員に就き、そのあと家業の関係で経営に就いた。したがって私は役人、議員、経営者の気持ちがわかると自負しています。座右の銘は「鳥の目、虫の目」。上から全体を眺め、虫の目になって細かいところを眺めろという意味です。
(*注1)驛鈴 えきれい。律令制の時代、駅馬を利用するときに携行を義務付けられた身分証。中央の官庁と地方の役所に備えてあり、使者の位に応じて人馬を調達した。実物は松阪市内の本居宣長記念館に収蔵されている。
(*注2)松浦武四郎(まつうら たけしろう、1818~1888)江戸末期の北方探検家、著述家等。日本各地を旅行、1845年に初めて蝦夷地に渡航して以来、しばしば同地に赴き、多くの紀行文や地図を残した。これらは幕末の蝦夷地の実態を知る貴重な資料となった。「東西蝦夷山川地理取調図」はとくに有名。2019年7月には、「嵐」の松本潤が武四郎に扮し「永遠のニシパ~北海道と名付けた男 松浦武四郎~」というタイトルで、NHKでテレビドラマ化され話題を呼んだ